国内旅行編(鹿児島 / ムー大陸博物館)

この旅行当時(2001年7月)私は無職だった。どういう無職生活を送っていたかというと、主に昼間は毎日図書館に出かけ、6時の閉館まで本を読み続けていた。もともとあまりTVは見ないほうなので、夜は音楽を聞きながらネットサーフィンをやるか、あるいはまた本を読んでいた。

一人暮らしなので、こういう生活をしていると人と話す必要がなく、朝起きてから夜寝るまで一言もしゃべらない日が多くなり、話し方を忘れたような気分になることもあった。一応、外出はしているから「引きこもり」にはならないかもしれないが、まあそれに近い状態だったように思う。

経験のある人ならわかると思うが、無職になると自分と社会の間に壁ができたように感じられ、働いている人が別世界の住人のように思えてくるものである。この状態が長く続くと社会復帰が困難になるのかもしれないが、幸いというべきか、こういうモラトリアムな無職生活は貯金が底をつく前に約2ヶ月で終わることになった。今は一転して忙しい日々を送っているが、ときどき当時を懐かしく思うことがある。時間が有り余るほどあった、贅沢な期間だった。

ただ、時間があまりたくさんあると「いつでも行ける」という気になるから旅行する気力が起きなくなる(貯金の心配をしていたこともあるが)。そのため、この期間中は鹿児島県指宿近郊にある「ムー大陸博物館」へ行っただけだった。ここは以前から見てみたいと思っていた場所なので、青春18きっぷを使って行ってみた。

肥薩線

早朝の列車で佐世保を出発。佐世保線~長崎本線~鹿児島本線を経由し、昼過ぎに八代駅に到着。

このまま鹿児島本線を下ってもいいのだが、ここでは肥薩線を経由することにした。かつて「日本一怪しい公園」からの帰りに肥薩線を通ったことがあり、そのとき以来の再訪となった。

八代からはずっと球磨川に沿って走り、人吉に到着。ここから吉松行きの観光普通列車「いさぶろう」に乗ったのだが、1両編成の列車内は満員で、とても座れるような状況ではない。ドアのところに立って外を眺めることにした。

人吉を出た列車は、まず最初の駅の大畑(おこば)駅に到着し、ここで10分ほど停車。駅付近を散策してみたところ、駅からは民家がまったく見えない。もっとも、これは大畑駅だけでなく矢岳駅や真幸駅でも同様で、付近に集落や民家があるような感じがまったくしない。はたしてどのような人がこれらの駅を利用しているのか、興味深いところだと思う。

大畑駅を発つと、ループとスイッチバックを組み合わせた「大畑ループ」を通る。こういうループは日本で唯一だそうで、全体が見渡せる場所で一時停車するサービスがあった。

大畑ループは下のような形をしていて、山の斜面をぐるりと一周している。

次の矢岳駅にはSL展示館があり、D51型蒸気機関車が置かれていた。以前はもう1台蒸気機関車が置かれていたが、そちらのほうは現役に復帰して豊肥本線で阿蘇BOYを牽引している。たしか、元機関士の人がかなりきれいに整備していたため、現役復帰が可能だったそうだ。たしかにD51もかなりきれいで、今にも動き出しそうな迫力があった。

矢岳駅を出て真幸駅へ。途中に「日本三大車窓」のひとつといわれている場所がある。晴れていたのでえびの高原から霧島連山まで望むことができ、なかなかの眺めだった。ちなみに日本三大車窓のあと2つは長野県篠ノ井線の姨捨付近と北海道根室本線の狩勝峠旧線(現在は新線に切り替えられ、旧線は廃線になっている)。

下の写真は真幸駅に停車中の「いさぶろう」。この駅には、ホームに「幸せの鐘」というものがあった。由来はよくわからない。

真幸駅を出て吉松へ。わずか4駅なのに、人吉を出てから約1時間20分かけて吉松駅に到着。

この人吉~吉松間は、急行「えびの」が廃止されてから普通列車が1日5往復だけという寂しい路線になってしまった。廃線の噂もあるが、九州新幹線が完成したら熊本から鹿児島方面へ向かう唯一の在来線になる(鹿児島本線の八代~川内はJRから分離される)。ぜひ残してほしいものだ。

吉松駅では約40分の待ち合わせ。空腹だったので何か食べるものでも買おうと思ったのだが、駅構内にも駅付近にもまったく店がない。当てが外れて空腹のまま列車を待つことになった。

吉松から肥薩線で隼人へ行き、日豊本線に乗り換えて西鹿児島へ。この日は鹿児島市内の繁華街「天文館」にあるカプセルホテルに宿泊。この日と翌日は天文館通で夏祭りが行われていて、なかなかの人出だった。

寶台寶物館(ムー大陸博物館)

西鹿児島駅から指宿枕崎線の快速「なのはな」に乗り、指宿駅で下車。ここでレンタカーを借り、ムー大陸博物館がある池田湖方面へ向かう。

指宿市街から国道226号線を走り、開聞町で池田湖方面に右折。しばらく走ると「多寶佛塔」「ムー大陸の謎」と書かれた看板が現れる。ここで矢印の通りに左折し、小高い山の上に上っていくと、仏教系の宗教団体「平等大慧会」の真っ赤な正門が見えてくる。ムー大陸博物館は、この「平等大慧会」の付属施設になっている。

門の前に案内図がある。それによると、この場所は「宝台(たからだい)」といい、敷地内には「多寶佛塔(たほうぶつとう)」という塔や「寶台寶物館(たからだいほうもつかん)」という博物館があり、「寶台寶物館」がムー大陸博物館らしい。

門の横に受付があり、ここで料金を払うのだが、額は決まっておらず好きな額を納めることになっている。入場料というよりも寸志という扱いになっているようだ。いくらにするかかなり迷ったのだが、結局500円を納めた。

門をくぐり、奥へ進んでいくと「なーむみょーほーれんげーきょー」と大声で合唱しながら(このイントネーションが伝えられないのが残念)歩いてくる数十人の行列とすれ違った。どうやらこの教団の信者らしい。

さらに歩いていくと売店があり、店の前に数十人の人だかりができていて、やがて「第2班の皆さん、それでは出発します」という声とともに、これまた「なーむみょーほーれんげーきょー」と合唱しながら出発していった。

後でわかったのだが、偶然にもこの日はなにかの式典が行われていて、信者が集まっていたらしい。大勢の信者から「何だこいつは」という目で見られるものだから、なんだか異世界に紛れこんだ一般人のような心境になった。おそらく、このとき宝台にいたのは信者以外では私だけだったと思う。信者たちは敷地内にある「解脱門」という場所でなにかの儀式を行うようなのだが、どんな儀式かは知らない。(なお、信者は老若男女さまざまだった)

売店前からは、正面に多寶佛塔が見える。予想していたよりもかなり立派な塔に驚かされた。

写真を撮ったときには気づかなかったのだが、現像してみると未確認飛行物体が写っていた。(この旅行当時はフィルムカメラを使っていた)

これはいったい何なんでしょうね?

多寶佛塔には後で行ってみることにして、まず寶台寶物館に入ってみた。数年前に新築されたらしく、かなり立派な建物になっている。(館内は写真撮影禁止なので、内部の写真はない)

入口は建物の3階にある。3階は事務所になっているらしく、館内の案内によれば1階がムー大陸博物館、2階が寶物館になっている。まず2階に下り、寶物館を見学した。ここには世界中から集められたさまざまな石が主に展示されている。なお、館内には私以外には誰もいなかった。

石や宝石についてはあまり知識を持っていないのでよくわからないが、ここに展示されている自然石は、電気石などの名前だけは聞いたことのある石や大型の水晶など、たしかに貴重なものが多いような気がした。自然石のほかには、かつて貨幣として使われた各種の貝や、化石などが展示されていた。

また、ここには「キイロタカラガイ」が入った小袋がたくさん置いてあり、来館者がひとつずつ持ち帰れるようになっている。長さ1センチほどの小さな貝だが、これもかつては貨幣として使われた種類だそうで、なかなかきれいなものだった。

ところで、なぜここにたくさんの石が展示されているかというと、これもムー大陸伝説と関係がある。これについては、1階のムー大陸博物館を見ると理解できることになる。

1階に下りると、いよいよムー大陸博物館。まず、ムー大陸の歴史と博物館の概要が下のように記述されている。

「有史以前の大記録人類誕生の謎」

三千万年以上前の大昔、太平洋上にムーという巨大な3つの大陸があった。その一角がこの寶台の地で、世界に現存する唯一のものである。二千五百万年前になって、この大陸に地上最初の人類が誕生し、同時に七色の蓮の花に飾られた大塔が地上に湧出した。

  • 佛典では 十の国 宝浄国
  • 神道では 高天原
  • 聖書では エデンの東の国

人類がこの大塔をお祀りしたところ、不思議に十万より多くの宝が集まってきたので、その塔を多宝佛塔と名付けて大切にしていたのである。次第に高度の文明を持ちつつ発展し、巨大な石造の官庁、宮殿神殿あるいは宝石珍宝妙物等で荘厳された大邸宅等を造り、マストドンに乗り、太陽を象徴した旗印を持って地上至る所に植民地を開拓し、平和平等の極楽世界を建設していたのである。ところがムー大陸暦の寒六年十一無留苦白の月に、心なき悪人等の手によりこの大切な多宝佛塔は破壊された。その時、恐ろしいことが起きた。大地は六種に振動し噴火地割津波陥没等同時に起こり阿鼻叫喚一夜にして大地獄と化し、母なる国ムー大陸は大文明とともに太平洋の海底に沈んでしまったのである。この大災厄は今から一万二千年以前の出来事であった。その植民地に生存していた子孫たちが母なる国ムー大陸追憶のために造った神秘の謎を秘めた種々の造形遺品並びに古記録を解明して、ここに有史以前の世界に皆さんを案内いたします。地上の唯一の神秘と謎の世界です。

「マストドンに乗り」だの「寒六年十一無留苦白の月」だの、いったいどうやって調べたんだよ? と思うのだが、やはりそれは言ってはいけないことなんだろう。

さらに壁一面にムー大陸の地図があった。それによると、かつてのムー大陸は下の地図のように円形、ひまわり型、三日月型の3つに分かれていて、太平洋のほとんどを占める広大な大陸だったらしい。そして、この場所、鹿児島県の宝台はムー大陸の一部だったのである。

この地図を見ると「宝台はムー大陸の端の端、まさに辺境なんだけど、そういう設定でいいの?」なんてことをつい考えたくなるが、それは言ってはいけないことなんだろう。

ムー大陸が存在していたころ、そこには多寶佛塔という塔が存在し、そのまわりに多くの宝が集まってきた、となっている。そして、現在の多寶佛塔は、当時とまったく同じ場所に再建された(ということになっている)ため、再び世界中から宝が集まってくるということになる。すなわち、2階に展示されていたたくさんの石はそうやって集まってきたものであり、ムー大陸伝説の正当性を裏付けるものなのである(ということになっている)。

ここには、ムー大陸の歴史や文字など、さまざまなものが展示されている。どうしてムー大陸のことがここまで詳しくわかるのかというと、これらはすべて「平等大慧会」の経典「妙法華経」によって明らかになったのだという。この「妙法華経」は、この教団の教主が霊界と交信しながら一文字ずつ書き写したものだそうである(ということになっている)。この「妙法華経」により、かつて多寶佛塔が建っていた場所の特徴が明らかになり、それをもとに教主が苦労して探し出した場所が、この宝台ということのようだった。

この「妙法華経」に記述されている特徴と実際の宝台との符合というのが、トンデモ関係の本を読んでいるようでなかなか面白い。「百以上の特徴がぴったりと一致している」というが「それはどうだろう」というものばかり。

例えば「象の鼻や眼、耳があり、象の鼻には花があるがいまだにつぼみを開かない」というような記述があるという。そして、近くの「長崎鼻」という場所(ここが象の鼻とされる)には、つぼみのままで花が開かない植物があるという。眼に関しては「宝台から池田湖を見ると、地形の関係で湖は二つに分かれて見える。これらはそれぞれ丑(うし)と寅(とら)の方角になるが、眼という漢字は艮(うしとら)の目と書く」だそうである。耳に関しては「宝台の裾野に小さな谷があり、聟入谷(むこいりだに)という。この聟という字は、耳を知ると書く」だそうである。

このように、地名の漢字を分解したり地形の特徴などからこれらの符合が得られているわけだが、信者でない者からするとこじつけのオンパレードで突っ込みどころは満載に思える。しかし信者の前では怖くて言えない。

他には、世界各地の「符合する」事象がいくつも紹介されている。例えば、エジプトのオシリス神は死者の行き先を天国と地獄に分ける神なのだが、これは日本の閻魔大王と同じであり、不思議な符合を見せている、等々。この他にも世界の各地で「不思議に符合する」という事柄がいろいろと紹介されている。もちろん、このような符合が見られる理由は、これらはすべてムー大陸に起源をもち、その植民地の子孫が語り伝えたものだからだそうである。

ところで、ムー大陸の支配者は「良武(ラ・ムー)」という人で、この名前はどこかで聞いたことがある。菊地桃子以外のメンバーは今どうしているのでしょうか。

また、館内には「湧現」という現象の写真がいくつも飾られていた。これは「夜間にライトアップされた多寶佛塔の隣にもうひとつの塔が姿を現す」という現象で「妙法華経」の正しさを示す証拠だというのだが、説明書きを読んでもいまいちよくわからない。写真を見る限りは背後の雲に塔の影が映っているように見えなくもないが、これは実際に見てみないとなんともいえない。

約30分で展示品や映像資料の見学を終え、寶物館を出ることにした。内容について多少批判的に書いたが、もともとこういうものは好きなほうなので展示物自体は面白くないということはない。むしろ、超古代史マニアはかなり楽しめるのではないかと思う。しかし、展示物を見ているうちに「もしかしてムー大陸は本当にあったんじゃないのか?」という気持ちになってくることは決してない。

寶台寶物館を出て、次に多寶佛塔に上ってみた。赤と白に彩色された塔で、中段には白色の象がいる。その象が、塔の上部を支えるような構造になっている。その象の足元までは上ることができた。

そんなに高い塔ではないが、多寶佛塔自体が高台に建っているため眺めはなかなかいい。開聞岳がきれいに見える。

多寶佛塔から降りて、横にあった集会場のような建物に入ってみた。ここにはパイプ椅子がたくさん並んでいて、それに座るとちょうど多寶佛塔を正面に見上げるような格好になる。おそらく、信者たちはここに座って「湧現」現象を眺めるのだろう。私も一度見てみたい気がするが、もし実際に見るためには信者になる必要があるのだとしたら、それは遠慮したい。

多寶佛塔のまわりを歩き回っていると、下の写真のような表示があった。この日はこういう式典の日だったらしい。意味はよくわからないが。

売店に戻ると儀式から帰ってきていた信者たちで混んでいたが、彼らはやがて集会場のほうへ行ってしまった。まったく、集会場で鉢合わせしなくてよかった。

ここでオリジナル商品らしい「プライムテン」という缶ジュースを買ってから、帰ることにした。これは高麗人参エキスとどくだみエキスが入った炭酸飲料で、教団と関係のある会社が製造しているらしく、おそらくこの教団内でしか買うことはできないと思われる。味はまあまあ。

正門へ戻る途中に、脇へそれる別の道があったので行ってみると解脱門があった。この前でどういう儀式をやるのだろう。

正門に戻り、受付で挨拶してから宝台を後にした。受付の人に「どうでしたか?」と聞かれたので、「とても面白かったです」と答えておいた。

私は基本的に無宗教人間なので、この「妙法華経」や、それに基づくムー大陸伝説を本気で信じている人がよく理解できない。しかしながら「妙法華経」にけちをつけるつもりはない。信じることで救われているのであれば(霊感商法などで他人に迷惑をかけない限り)それはそれでいいのではないかと思う。人間は信じていたものが信じられなくなったときが一番怖いらしいのだから。

池田湖

まだ時間があったので、近くにある池田湖へ行ってみた。

池田湖の名物といえば、もちろんイッシー。最近は目撃情報を聞かないが、地元では忘れられたわけではない。湖畔には下の写真のようなイッシー像がある。

さらに、別の場所にはイッシー像とクッシー像があった。池田湖と屈斜路湖は、あるいは姉妹湖なのかもしれない。

このイッシーについては、撮影された映像をTVで見た人も多いと思う。私の考えでは(夢のない言い方をすれば)池田湖に棲息している大ウナギが突然変異で大型化したものか、あるいは大ウナギが群れて泳いでいたのではないかと思う。種の保存のためには少なくとも数十頭が棲息していることが必要だと思うが、このような大型獣がそれだけ棲息するためにはかなりの量のえさが必要で、そのためには池田湖が(これはネス湖や屈斜路湖についても同様だと思うが)魚で埋め尽くされていないといけないのではないか?

もっとも、これは池田湖などの湖についての私なりの見解であり、海の底には恐竜の生き残りが棲息しているかもしれない。

池田湖畔にはもちろん風光明媚な場所が多く、久しぶりに下のようなきれいな写真が撮れた。遠くに見えるのは開聞岳。

夕方になったので、指宿駅へ戻ってレンタカーを返却した。再び快速「なのはな」に乗って西鹿児島へ帰り、昨日と同じカプセルホテルに宿泊。この時期、このカプセルホテルではアイスキャンディーの無料サービスをやっていたが、湯船に浸かりながら食べるのはやめてほしい。(そういう人がいたので)

翌日は水俣回りで鹿児島本線の各駅停車を乗り継いで佐世保へ帰ったのだが、各地で九州新幹線の工事が着々と進んでいた。

(2001.7.20~22)


<追記>

8年後の2009年に寶台を再訪したが、休館中のため門の中に入ることはできなかった。そのときの記録と、同じ宗教団体が運営している「涅槃城」の訪問記については以下のページを参照。


<追記>

ネット上に「再開したらしい」という情報があったので2018年に再度訪問してみたが、やはり閉館したままで中に入ることはできなかった。もしかしたらもう再開することはないのかもしれないが、しかし一縷の望みは持っておきたい。

指宿市の青隆寺と枕崎市の国見山大国寺を訪れた際に立ち寄った風景については、当サイト別館の訪問記を参照。