国内旅行編(石川 / 串茶屋民俗資料館)

小松駅からバスに乗り、串茶屋で下車。すぐ前に串茶屋公民館があり、公民館と棟続きの民家の一画が串茶屋民俗資料館になっている。

ここは「別冊宝島378」でわずかに紹介されているだけで、インターネットで検索しても詳しい展示内容がわからなかった。少し興味があったので、この機会に訪れてみた。


資料館に着いたのはいいが、入口が閉まっていて入れない。閉館日かとも思ったが「ご用の方はこちらへ」と書かれた紙が貼ってあったので公民館前の公衆電話から一応電話してみたところ、管理人の方がこれから来てくれるということになった。近くに住んでいるらしく、数分で初老の男性が到着して鍵を開けてくれた。

ここは、かつてここ一帯に栄えた「お茶屋」の遺品を集めた資料館になっている。内容は、普通の民家の座敷二部屋に古い写真や手紙、かつてお茶屋で使われていた道具などを並べたもので、資料館としてはかなり小規模のもの。

お茶屋というのは、当時の風俗業、つまり遊郭のこと。江戸時代の風俗に関しては、私は杉浦日向子の漫画やエッセイから多くの知識を得たクチなので、遊郭というとあの画風が思い浮かぶ。「別冊宝島」には「文化・文政の頃より京都の風習を取り入れたここ串茶屋の遊女たちは、和歌や生け花などのたしなみを身につけており高貴で教養あふれる女性たちだった」と書かれていて、展示品も生け花道具や楽器、遊女が作った和歌が書かれた短冊などが主になっていた。

ここは明治32年に終焉を迎えるまで約300年にわたって栄えていたそうで、展示品数こそ少ないもののなかなか興味深い資料館だった。20分ほど見学した後、来館者名簿に記名して資料館を後にした。それから、ここの鍵を開けてくれた男性の話では遊女たちの墓が近くにまとまって存在するということだったので、続いてそちらへ行ってみることにした。

ここで断っておくが、江戸時代の遊女にしても、あるいは現代の風俗嬢にしても、私は決してこれらの女性を低く見ているわけではなく職業のひとつとして認めている。ソープ嬢だろうとAV女優だろうと、他人からとやかく言われる筋合いはないだろう。


資料館から10分ほど歩いたところに「遊女の墓」がある。住宅地のはずれのような場所で、ちゃんと案内板も設置してあった。

かつて遊郭街は日本各地にあったそうだが、遊女が死去した場合(パンフレットによれば)手厚く葬られるということは少なかったらしい。遊女の墓がまとまって存在し、その多くの名前が判明しているのは現在ではここだけということだった。

墓地にはいくつかの地蔵と十数基の墓が並んでいた。擦れて判別不能になった文字も多いが、中には「享年十九」や「享年二十一」といった文字が読み取れたりして、なんだか悲しい気分になる。

雨が降っていたのでそれほど長居はしなかったが、きれいに清掃されていたのは嬉しかった。しばらく周囲を散策した後、バス停に戻り、小松駅へ帰った。(この路線は1時間に1本なので、帰りのバスの時間に注意しておく必要がある。)

遊郭街といえば、最も有名なのは吉原だろう。吉原遊郭については、以下のサイトに誕生から終焉まで詳しく記述されている。非常に読み応えがあるので、一度訪れてみてほしい。

(2002.5.4)