カンボジア旅行記(バンテアイスレイ、一ノ瀬泰造の墓)

朝8時にホテルを出発。前日の昼間がかなり暑かったためTシャツだけという格好で出かけたが、出発してすぐに寒くなってきた。実は朝はかなり気温が下がるらしい。少し後悔したが、しかし昼になれば暑くなるので、このまま出かけることにした。

この日の最初の目的地はバンテアイスレイという遺跡で、アンコールワットなどの遺跡地帯から約40キロの距離にある。片道1時間近くかかることになるが、訪れる観光客は多く、かなり賑わっている。私が訪れたときは半数ほどが日本人の団体旅行者だった。

バンテアイスレイ

朝の喧騒の中にあるシェムリアップ市街を抜け(他のバイクや車に腕が当たりそうでひやひやした)、アンコールワット方面へ。遺跡地帯を過ぎると周囲は一面の田園風景になる。牛車や馬車が現役で活躍している小さな集落をいくつも通り過ぎ、シェムリアップから約50分でバンテアイスレイに到着した。少し寒い上に長時間のドライブだったので、しばらく体が痛かった。

バンテアイスレイは「女の砦」という意味。10世紀に建造されたヒンドゥ寺院で、アンコールワットなどと比べると拍子抜けするほど小さいが、そのぶんレリーフなどの密度は高い。

アンコール遺跡の多くと同様、中央の祠堂を外周壁が囲むような構造になっている。しかし規模が小さいのでちょっと観光客の密度が高く、静かに散策するというわけにはいかなかった。

ガイドブックには、この寺院には「東洋のモナリザ」といわれるデヴァター像があると記載されている。しかしながら、私が訪れたときはそのデヴァター像へ近づくことはできなくなっていた(最初はそのデヴァター像を探し回っていたのだが、日本人ツアー客のガイドの説明を便乗して聞いたところ、そのことがわかった)。残念だが、遺跡保護の点からは仕方がないのだろう。

ここは他のアンコール遺跡と比べて色が赤っぽいが、これは赤色砂岩が含まれているためということだった。下の写真は門の上に刻まれていたレリーフ。

規模は小さいが、装飾やレリーフはかなり稠密な遺跡だった。また、遺跡の「赤さ」がちょっと独特な感じを与えている。印象に残る遺跡といっていいだろう。

1時間ほど遺跡とその周辺を散策した後、ジェイム君と合流してシェムリアップ方面へ戻ることにした。

一ノ瀬泰造の墓

バンテアイスレイからの帰り道、ジェイム君が「タイゾーの墓があるが、寄ってみるか?」と聞いてきた。最初は「タイゾー」の意味がわからなかったが、すぐ近くに「泰造の墓」という日本語の小さな案内板があり、カメラマン「一ノ瀬泰造」のことだとわかった。

一ノ瀬泰造については、カンボジアで殺されたカメラマンということと、彼の「地雷を踏んだらサヨウナラ」という言葉を知っているくらいで、それほど詳しいわけではなかった。しかし、せっかくなので墓へ行ってみることにした。

幹線道路を外れてしばらく川の土手の上を走り、やがて墓の近くに到着。ここで土手を下り、小さな橋を渡ったところに墓石がある。

インターネットで検索したところ、公式サイトがあったので詳しい経歴等については以下を参照してほしい。

それにしても、アンコール遺跡周辺がこれほど観光客であふれることになるとは当時はまったく想像できなかったのではないだろうか。今思えば、当時のクメール・ルージュとはいったい何だったのだろう。

墓には管理人の若い男性の他に日本人女性の先客がいて、やはりバイクタクシーの運転手に勧められてここへ来たということだった。初めての海外1人旅の途中ということだったが、その旅行先がいきなりカンボジアとはなかなかのものだと思う。別れる際にこのサイトのアドレスを教えておいたので、このページを見ているかもしれない。

墓石自体はわりと新しく、一ノ瀬泰造の名前が刻まれている。後で知ったのだが、この場所は正確には一ノ瀬泰造が処刑された場所ということらしい。墓石の前の小屋に日本語の書籍が何冊か置いてあったので、線香をあげた後それらを読みながら休憩。周囲はのどかな田園風景だが、30年前のポル・ポト時代の記述にちょっと怖くなってくる。こういう極端な思想主義者は、こんな狂気のようなこともやってしまうものなのだろう。なにしろカンボジア人口の3分の1が殺されたというのだから。

引き上げようとすると、管理人の男性が「墓の整備や供え物に金がかかるので、いくらか置いていってくれないか」と言ってきた。こうなることはある程度予想していたし、周囲がきれいに清掃されていたのにも好感が持てたので多少の米ドルを置いてきたが、しかし自分の名前が日本人に金を置いてもらうために使われていると知ったら一ノ瀬泰造本人はどう思うだろうか。

その後、次の目的地のトンレサップ湖へ行くためシェムリアップ市街方面へ向かった。いつかまた、この墓には来たいと思う。