国内旅行編(徳島 / お山公園再訪)

(注)お山公園創始者の山口健二氏はすでに亡くなられており、お山公園は閉鎖され廃墟化しているようです。このページは2006年当時の記録として読んでください。

今回はちょっと特殊な旅行。私の出身大学の研究室から旅行の案内が来て、今回は行き先が愛知県の伊良湖だというので約10年ぶりに参加することにした。

私が卒業論文、修士論文を書いた研究室で、在籍時は毎年行っていたのだが、就職して長崎県へ移ってくるとまったく参加できなくなっていた。今回は東京から西のほうへ来てくれるということと、火曜日が祝日なので月曜日を休んで4連休にすれば帰りにどこか面白そうなスポットに立ち寄れると考えて、久しぶりに参加することにした。

往きの交通手段としては、まだ行ったことのない中部国際空港への飛行機というのも考えたが、旅費を節約するために久しぶりに深夜バスに乗ってみることにした。


金曜日の夜7時50分に夜行バスで佐世保を出発し、翌朝の7時40分に名古屋の名鉄バスセンターに到着。約2年半ぶりの深夜バス体験だったが、今回のバスは車内がかなり寒く、あまり寝られなかった。一晩だけだからまだいいが、こういうバスに二晩続けて乗ったら本当に「水曜どうでしょう」の壇ノ浦レポートみたいなことになりかねない。「サイコロの旅」の大変さを多少とも理解できた。

駅前にあったインターネットカフェでメールをチェックし、翌々日に再訪する予定の「お山公園」について、いくつか調べてみた。

今回は3年半前に訪れた徳島県西祖谷山村の「お山公園」を再訪することにしていた。なぜここを再訪することにしたかというと、お山公園の来歴についてインターネットで知ることができたことがきっかけ。

それによると、地元出身で大阪で事業を起こし成功した山口健二氏という方が、地元振興として結婚式場を建設したのがお山公園の始まりだという。その後(どういう経緯があったのかは知らないが)交流があった石川県のハニベ巌窟院から院主の作品を数多く持ち込んで地獄風景を作り上げたらしい。現在は結婚式場は閉鎖され、この地獄めぐりだけが残されている。

創始者の山口健二氏は、現在すでに90歳を越え、大阪で療養中だそう。親族は誰もこのお山公園を引き継ぐつもりはないそうで、したがって山口氏が亡くなればおそらく閉鎖されることになると思われる。

3年半前に訪れて以来、いつかまた再訪したいと思っていたが、そういう事情ならちょっと急がないといけない。というわけで今回訪れてみることにした。

その後、名古屋から名鉄で河和駅へ行き、そこから高速船で伊良湖へ。伊良湖ビューホテルに午後2時ごろ到着した。

研究室の人たちとの久しぶりの再会や夜の飲み会については、ここに記すことでもないので割愛し、続いて翌日の行動へ。翌日はフェリーで対岸の鳥羽へ渡り、鳥羽水族館を見ることになっていた。下の写真はフェリーから見た海。

昼過ぎに一行は伊良湖へ戻ることになっていて、私のほうは鳥羽で別れて鉄道で帰ることにしていた。ところが、鳥羽水族館にいたときに(私には直接関係ないが)一行にとってアクシデントが発生。次第に風が強くなってきたため帰りのフェリーが欠航してしまった。ゆっくりしていられないということで大急ぎで近鉄鳥羽駅へ行き、一行は特急列車で帰っていった。

別れの挨拶もそこそこに慌しく行ってしまった一行を見送り、私のほうはJR線乗り場へ。窓口で青春18きっぷを買い、快速みえに乗り込む。この後、津~亀山~柘植~草津と移動し、草津から新快速で姫路へ。ここから各駅停車に乗り、夜10時ごろ岡山に到着した。


岡山で1泊し、翌日の朝、琴平行きの各駅停車で四国方面へ向かう。瀬戸大橋を渡り、琴平時に10時40分駅に到着。土讃線の宇多津~佃間は今まで乗ったことがなく、私にとって初乗車区間となる。

このあたりは各駅停車がかなり少ない区間なので、仕方なく琴平~阿波池田間は別料金を払って特急列車を利用した。JR九州もそうだが、都市部をちょっと離れると特急列車ばかりになるというのは何とかならないものだろうか。

阿波池田から再び各駅停車に乗り、12時過ぎに大歩危駅に到着した。3年半ぶりの再訪で、なんだか懐かしい。

予定では、ここからバスでかずら橋へ向かうつもりだった。ところが、駅前の時刻表を見てみるとかずら橋方面へのバスがほとんどない。4月からは本数が増えるらしいが、オフシーズンは1日数便しか運行していない。これは困った。

かずら橋までは約12キロ。歩けない距離ではないかもしれないが、勾配のある山道なのでかなりきつそう。タクシーでいくことも考えたが、やはりタクシーは金がかかる。(前回来たとき、かずら橋から大歩危駅までタクシーに乗ったが、このときは3,000円ほどだった)

そこで、とりあえずかずら橋方面へ歩き、疲れた時点でタクシーを呼ぶことにした。

大歩危駅前には、インターネット上ではなぜか人気の「ぼけマート」がある。

たしか前回来たときはなかった「ザ・地場産(じ~ば~さん)お立ち食い処」の文字に脱力しながら、店の前を通り過ぎてかずら橋方面へと歩き出したが、ずっと上り坂が続くために早々と疲れてしまった。それに、道路には歩道がないため歩いているとちょっと危なくもある。そこで、大歩危駅から約2キロの「平家屋敷」で歩くのをあきらめ、ここでタクシーを呼ぶことにした。自分でも諦めるのが早いのではないかと思わなくもないが、まあ致し方ない。

やがてやってきたタクシーに乗り、10分ほどでかずら橋に到着した。本当に、車に乗っているとあっという間。かずら橋付近は広い道路と大型の駐車場が整備されている途中で、周辺では大規模な土木工事が行われているようだった。今はなんとなく秘境という雰囲気が漂っているが、やがてはもっと訪れやすい場所になるのだろう。

かずら橋は前回来たときに渡ったので今回はパスし、さっそくお山公園へ歩くことにした。風光明媚な景色を眺めながら10分ほど歩き、やがてお山公園に到着した。


懐かしい。3年半ぶりだが、周囲はまったく変わっていない。ここで入場料の600円を払い、洞窟内に入る。

入り口近くの壁には、お山公園の来歴について書かれていた。

今日はようこそお山公園にお越しいただき誠にありがとうございます。この洞窟は昭和51年に社長山口健二が還暦を記念して私財を投じ建設し、お山公園と名付け開園したのであります。更に平成5年に喜寿を迎え洞窟内に大佛坐像、不動明王、弘法大使像も観請祭祉し、地域の安寧と世界が平和でありますように記念すると共に、天国の映像を御高配いただければ幸いに存じます。

昭和51年(1976年)開園ということは、この旅行のときは開園30周年だったわけで、偶然にも区切りの年に訪れることができた(といっても特に何もやっていなかったが)。現在お山公園を管理しているのは入口のチケット売り場にいる女性1人らしい。

ところで「観請祭祉」というのは初めて見る言葉だが、どう読むのか?(かんせいさいし?)

では早速洞窟内に入り、まずは地獄へ。

閻魔大王から始まり、さまざまな地獄風景が人形を使って再現されている。3年半前に訪れたときは、ハニベ岩窟院とあまりに類似した光景に「これは絶対にパクリだろう」と思ったのだが、どうやら本当にハニベ産だったらしい。「鬼の食卓」や「鬼のコック」など、ハニベ岩窟院と構図がまったく同じ。

ただ、こちらのほうがちょっと安っぽい感じがするので、ハニベ岩窟院の院主にとっては初期の習作のような作品なのかもしれない。それでこのお山公園に払い下げたのかもしれないが、しかしここの創始者と院主の間にいったいどういうつながりがあったのだろう。

しかしながら「殺人罪」の場面になぜ人魚がいるのか、よくわからない。

洞窟内を歩き回っていると、これらが確かにハニベ岩窟院の院主によって作られたことを示す表示があった。

前回来たときは気がつかなかったが、たしかに「二代目院主」の文字がある。この表示板もハニベ巌窟院から持ってきたものと思われる。それにしても、前回はなぜ気づかなかったのだろう。

地獄内を長時間歩き回った後、続いて18歳未満は入ることのできない天国へ。こちらのスペースは、かつて洞窟喫茶だったという。洞内の冷気のため、働いている人がみんな体調を崩して辞めていくので洞窟喫茶はやめることにして「地獄があるなら天国も」ということで天国を作ったらしい。

ここには、コンクリート剥き出しの小さな部屋にいくつかのマネキン人形が置かれている。ちゃんと現像できるかどうか心配だったが、今回も写真を撮ってみた。(この旅行当時はフィルムカメラを使っていたので)

天国内には、パンフレットに「四国でたったひとつの大仏様」と書かれている「お山大仏」(高さ 1.5m ほど)が安置されている。本当に四国唯一なのかはよくわからない。

また、ここには「お山大佛の建立に寄せて」という創始者山口健二氏の碑文がある。世界平和や郷土の安寧など、もっともらしい言葉が刻まれているが、やはり感銘を受けるのは最後の言葉。

「人生は金持てば毎日毎日楽し」だって。

やっぱりそうですよねえ…

これで洞窟を出ることにして、奥にある駐車場へ。ここには、様々な石像が並んでいる一画と猿が数匹いる檻が並んでいる。石像の中に、ここの創始者を見つけた。

この方がお山公園の創始者、山口健二氏。

江戸川乱歩の「パノラマ島奇譚」という小説がある。貧乏な夢想家が、ある行為によって莫大な資産を手に入れ、それを使って無人島に理想郷を作り上げるというのが大まかな筋の荒唐無稽な小説。一応は探偵小説としての展開はあるものの、この小説の魅力は執拗なくらいに繰り返されるパノラマ島の描写にある。私の場合、たしか高校生くらいのときにこの小説を読んだと思うが、当時はパノラマ島を実際に作りたくて仕方がなかったものだ。未読の人はぜひ読んでみてほしい。

なぜ急にこういう話を始めたかというと、お山公園、ハニベ岩窟院、神秘珍々ニコニコ園などのB級スポットは、規模こそ格段に小さいものの、やはり創始者にとってのパノラマ島ではないかと思うのだ。このような、一般人から見れば無駄としか思えないことに多くのエネルギーと金を注ぎ込み、自分にとっての理想郷を作り上げるという行為に共感できるかどうかがB級スポットめぐりを好きになるかどうかの分れ目だと思うのだが、どうだろうか。

そして、これらの物件は(岩窟ホテルのように一度は意思が受け継がれた例はあるが)基本的に創始者一代限りのものであり、創始者が亡くなったり、あるいは高齢のため活動できなくなれば、やがて消えていく運命にあるのだろう。このような採算が取れない施設は、創始者並みの強い情熱がなければ続けられるものではない。

現在日本に残っているB級スポットについても、どこも創始者はそれなりの高齢になっているため、今後次々と消えていく可能性がある(北海道秘宝館も閉館するらしいし、淡路島ナゾのパラダイスもちょっと危なそう)。そのわりに新しいB級スポットは増えていないような気がするが、これは日本から奇人が減っているということなのだろうか。

などということを考えながら、石像広場と洞窟内を再度散策し、お山公園を出ることにした。果たして、このお山公園はいつまで存続しているだろうか。興味がある人は、ぜひとも早めに訪れてほしいと思う。私も、いつかまた訪れることができれば嬉しい。


歩いてかずら橋に戻り、しばらく周辺を散策してから(名物らしい「みそ田楽」というものを食べてみた)、四国交通バスで大歩危駅へ。大歩危から各駅停車を乗り継いで岡山へ戻り、この日も岡山泊。翌日、再び各駅停車を乗り継いで佐世保へ帰った。

(2006.3.20)