カンボジア&タイ旅行記(トゥールスレン刑務所博物館 / 後編)

この建物は全体が有刺鉄線で覆われていた。

有刺鉄線というのは、近くで見るとなんとも威圧的だと思う。

建物の中はレンガで細かく区切られ、独房になっていた。

独房内部の写真。こんなところに閉じ込められたらたまったものではない。

おそらく、かつて使われていた鎖。囚人はここに繋がれていたのだろう。

ひとつ上の階に上がると、こちらはレンガではなく木製の壁で仕切られていた。レンガよりはましとも考えられるので、多少は罪の軽い(ということになっている)囚人が収容されていたのかもしれない。

有刺鉄線を通して外を眺めてみた。かつての囚人たちも、このようにして外を眺めていたのかもしれない。

かつて使われていた拷問器具。横には使い方の説明図も示されていた。

収容所の関係者の証言を基に描かれた絵。まさに狂気の沙汰。

この部屋には、おそらく慰霊のための仏塔が置かれていた。棚の中にはたくさんの人骨が収められている。

頭蓋骨のアップ。頭頂部の穴は、あるいは処刑の跡だろうか。

かつて、ここには頭蓋骨でカンボジアの地図が作られていたという。評判が悪かったため現在は撤去されているが、写真が残されていた。実物を見てみたかったという気もする。

この人たちが収容所から生還した7人。館内には、この人たちのその後についても展示されていた。

展示内容を一通り見た後、中庭のベンチに座って休憩した。天気もよく、ここにいると街中の喧騒も聞こえてこないため、のどかな雰囲気になっている。館内の凄惨な展示物とはあまりにも対照的で、かつて大量殺害が行われていたとは信じられないほど。

この5年前の2006年にベトナムのホーチミンを旅行した際、ベトナム戦争について展示した戦争証跡博物館を見学したことがある。あの博物館も暗い気持になる場所だったが、こことは根本的に違うという気がする。

戦争証跡博物館の展示内容も、それは凄惨なものだったが(ベトナム側の視点によれば)アメリカという侵略者に対して戦った戦争であり、最終的には勝ったという結果がある。つまり、どれほど凄惨であっても、ベトナム人にとっては誇りと言える部分もあることになる。

それに対して、ポルポトとクメールルージュはカンボジア人であり、カンボジア人自身が生み出したものということになる。しかもポルポト時代が終わったのはベトナムがカンボジアを占領したからであり、自分たちでは解決できず外国の侵攻に頼らないといけなかったという現実がある。つまりカンボジア人にとってポルポト時代は恥でしかなく、ベトナムのように誇りの部分がまったくない。

そのためか、カンボジアの公立学校ではポルポト時代のことをあまり教えておらず、早くも記憶の風化が起き始めているという話を聞いたことがある。あの時代を経験した人たちが多くを語りたくないという気持ちもわからなくはないが、やはりこういうことは伝えていかないといけないのではないか。このトゥールスレン刑務所博物館や翌日訪れたキリングフィールドにしても来訪者のほとんどは外国人だったし、ちょっと気になるところではある。

「国全体がひとつの刑務所のようだった」などといわれるポルポト時代について少しだけ雰囲気を知ることができ、いい体験だった。日本人にとってカンボジアといえばシェムリアップでアンコールワットを見るのが主流で、プノンペンを訪れる人は少ないようだが(実際、日本人はほとんど見なかった)、一度はポルポト時代の史跡を見てほしいと思う。

続いて、トゥールスレン刑務所博物館の前からバイクタクシーに乗り、次の目的地の王宮方面へ向かった。