ヨルダン旅行記(アンマン~ペトラ)

ヨルダン滞在3日目。この日でいったん首都のアンマンを離れ、南部のペトラへ向かう。ペトラは世界文化遺産に登録されている有名な遺跡がある町で、今回のヨルダン旅行で最大の目的地になる。


朝8時半、ホテルをチェックアウトし、ヨルダン南部への路線が発着する南バスターミナル「ムジャンマ・ジャヌーブ」へ向かう。タクシーで20分ほどで到着し、ここでペトラ観光の拠点になる町ワディ・ムーサ行きのバスを探すとすぐに見つかった。さすがに主要路線だけあって運転手たちがさかんに客集めをしている。

バスといってもマイクロバス程度の大きさで、乗り込んだところ先客は2人ほどだった。実はヨルダンの路線バスには決まった出発時刻がなく「満員になったら出発する」というシステムになっている。このことは旅行前に調べていたので「これは出発まで時間がかかるかも」という気がした。

マイナーな路線だと朝に乗り込んで出発は昼過ぎなどということもあるそうだが、さすがに主要路線だけあって少しずつだが乗客が集まってくる。バスに乗ってから約1時間でほぼ満員になり、10時10分にワディ・ムーサへ向けて出発した。運賃は5ディナール。車内には欧米人の旅行者も5人ほど乗っている。

アンマンを離れると、やがて砂漠の中を一直線に続いているハイウェイを走るようになった。この道路はヨルダンを縦貫する「デザートハイウェイ」で、きれいに舗装されていて振動も少なく快適そのもの。

下の写真は移動中の車窓風景。地平線まで砂漠が続いている。

途中、小さなドライブインのようなところで休憩があった。予想通り小汚いトイレに行き、店で水を買ってからバスに戻る。右下の写真に写っているのが乗ってきた路線バス。

ドライブインの前から見たハイウェイの風景。目の前を大型トレーラーやバスがすごい勢いで通り過ぎていく。日本ではなかなか見られない光景といえる。

ドライブインを出発し、再びデザートハイウェイを南下する。ハイウェイの終点はヨルダン最南端のアカバで、その手前で右折してハイウェイを離れ、ワディ・ムーサへ向かう。アンマンから3時間半、午後1時40分にワディ・ムーサのバスターミナルに到着した。長い移動だったが、バスが振動も少なく快適だったこともありそれほど疲れなかった。

まずは泊まるところを決めないといけない。最初は、おそらくバスターミナルにはゲストハウスの客引きがいるだろうと考えていたのだが、予想に反して誰もいない。そこで、とりあえずワディ・ムーサの中心部へ向かうことにして、歩いていると後ろから来た車の中から声を掛けられた。予想していなかったので意表をつかれたが、聞いてみると “Valentine Inn” というゲストハウスのスタッフということだった。部屋を見てみることにして、一緒に車に乗り込んでゲストハウスへ向かった。

ゲストハウスはワディ・ムーサ中心部から坂を上った高台にあり、外見はかなりきれいそうだった。経営者らしい女主人(後でイタリア人ということがわかった)に部屋を見せてもらったところ、こちらもかなりきれいで、朝夕の2食付で2泊45ディナールということなのでここに泊まることにした。

下の写真はゲストハウスの外観と部屋の様子。バレンタインという名前から予想できる通りピンク色をしている。

ここでは3人ほどアジア系の若い女性スタッフが働いていて、出身を聞いたところスリランカということだった。どうやら出稼ぎに来ているらしいが、みんな英語が流暢なのにはびっくり。

ゲストハウスが高台に立っているので、ここからの眺めはなかなかいい。ワディ・ムーサの町が一望できる。

部屋で少し休んだ後、早速ペトラ遺跡へ行ってみることにした。このゲストハウスは朝夕それぞれ2回ずつ遺跡への無料送迎をやっているが、他の時間も頼めば有料で連れて行ってくれる。私がゲストハウスに到着した直後、別の欧米人グループが客引きに連れられてやってきたそうで、その人たちと一緒に遺跡へ向かうことになった。


遺跡の入口は町から3キロほど離れていて、車で5分ほどかかる。ゲートの横にある駐車場の入口付近で車を降り、まずはチケットを購入した。チケットは1日券(21ディナール)、2日券(26ディナール)、3日券(31ディナール)の3種類があり、今回はワディ・ムーサに2泊するので2日券を購入した。さすがに有名遺跡だけあってチケット料金はかなり高いが、遺跡の保存管理に使われる費用になるので、これは喜んで払うことにする。

周囲には土産物店が並んでいるが、そこは帰りに見ることにして遺跡内に入る。

ここで馬に乗ることもできるが(当然ながら料金は交渉次第)、最初は歩くことにする。まったく日陰のない炎天下の道を歩いていくと、やがて岩山にいくつかの尖塔がある遺跡が見えてくる。これがオベリスク墳墓で、自分が遺跡内を歩いていることを改めて実感させられる。

遺跡入口から1.5キロほど歩くと、細い岩の割れ目の前に到着する。ここからは「シーク」という絶壁に挟まれた細い通路を歩くことになる。このあたりにも馬や馬車が待機していて、もし歩き疲れていれば頼むこともできる。

シークに入ると、それまでとは一転して周囲は薄暗くなる。

シークの両側にそびえている岩山は、砂岩に含まれているミネラル分の違いによって色が様々に変化する。そのためシークを歩いていると本当に面白い。道の脇には、かつてローマ人が作ったという水路も残されている。

それにしても、紀元前によくこんな細い通路を作ったものだと思う。周囲の雰囲気は本当に素晴らしい。ここを通らないと先へは進めないのだから、かつてはまさに難攻不落の場所だったのだろう。

歩いていると、ときどき観光客を乗せた馬車がやってきて追い越していく。

曲がりくねった細い道を歩くこと約30分、突然目の前が開け、大きな建造物が現れる。ペトラ遺跡の中でもっとも有名な「エル・ハズネ」という神殿である。それにしても、これだけの神殿が突然現れるという仕掛けには本当に感嘆させられる。

以下、少しずつ歩きながら写真を撮ってみた。

本当に素晴らしい演出効果だと思う。神殿は高さ約40メートル、幅約20メートルで、オレンジ色に光っている。突然現れるというのは知識としては知っていたものの、しかしその突然ぶりは想像をはるかに超えていた。

この遺跡を紹介するサイトには必ず記載されていることだが、この遺跡は映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」に登場している。映画のラスト近く、聖杯が安置されている場所への入口としてエル・ハズネが使われているので、映画を見た人には見覚えがあると思う。私は「インディ・ジョーンズ」シリーズは第2作までは見ていたが、第3作の「最後の聖戦」は見たことがなかったので、旅行の1週間前に予習としてDVDをレンタルしてみた。結果として、やはり事前に見ておいて良かったと思う。

上の写真を見るとわかると思うが、この神殿はもともと1枚の岩盤だったところを掘って作られている。いくら掘りやすい砂岩といっても、この神殿が最初に彫られたのは紀元前1世紀なのだから、約2000年前。それを考えると驚異的だと思う。

さすがにペトラ遺跡のハイライトのひとつなので、周囲には観光客が大勢歩いていて観光客用のラクダや馬も待機している。なおエル・ハズネというのはアラビア語で「宝物庫」という意味で、ベドウィンが神殿の最上部にある大きな壷に宝が入っていると思ったことからこういう名前になったという。

エル・ハズネの中に入ることはできないが、正面から中を覗くことはできる。岩盤を掘られているためそれほど奥行きはなく、四角い部屋がいくつか並んでいるだけだが、これが紀元前に彫られたことを考えると感慨深いもの。

エル・ハズネの前には小さな土産物店があり、紅茶なども売られている。ここで砂糖がいやというほど入った異常に甘い紅茶を頼み、ベンチに座って休憩した。紅茶の値段は2ディナールで、かなり高いがこれは観光地価格なので仕方がないだろう。エル・ハズネを眺めていると本当に飽きない。

ペトラは非常に広い遺跡なので、1日で全体を歩くのは難しい。そこで、この日はエル・ハズネの先のローマ劇場まで歩き、そこで引き返した。翌日、終日かけて遺跡の最奥部まで歩いたのでエル・ハズネから先については次のページで紹介することにする。

再びシークに入り、周囲の景色を楽しみながら遺跡入口に戻った。気候は暑いが、シークからエル・ハズネまでは日陰が多いためそれほど疲れない。もっとも、エル・ハズネから先は日陰の少ない炎天下を歩くことになるので、翌日は帽子と水が必需品になりそう。遺跡入口近くに並んでいる土産物店で帽子の値段を調べてから、遺跡を出ることにした。私が遺跡内にいたのは2時半~5時半の3時間だったが、あっという間だった。


ゲートを出て、車を降りた場所で待つことにした。ゲストハウスの無料送迎の時刻は午後6時で、待っているとやがて送迎車がやってきた。この時間の送迎に乗ったのは私1人で、約5分でゲストハウスに戻った。

部屋で休んだ後、夕食まで時間があるのでワディ・ムーサの町を少し散策することにした。昼間はかなり暑かったが、この時間になると涼しくなっていて外を歩くと快適そのもの。

ゲストハウスから坂道を下りていくと、ワディ・ムーサの中心部にあるロータリーが見えてくる。

ロータリーを中心に30分ほど散策し、帰りにロータリーに面した小さなスーパーマーケットに入ってみた。ここで箱に遺跡の写真が載ったターキッシュ・ディライトのような菓子があったので、土産物としていくつか買い、ゲストハウスに戻った。

部屋で休んでいると、スリランカ人スタッフが夕食の準備ができたと知らせに来てくれた。夕食の場所は屋外(玄関の前)で、ビュッフェ形式で多くの料理が並んでいる。ここで他の宿泊客(日本人も2人ほどいたが、あとはヨーロッパ人ばかりだった)と一緒に夕食にした。

夕食中、近くに座ったスウェーデン人の男性旅行者に話しかけられたが、彼は日本語の文字の複雑さに興味があるようで「日本語は3種類の文字を組み合わせて表記し、それぞれ50種類、50種類、約3000種類の文字があると聞いたが、それだけの文字をどうやって覚えるのか」などと質問された。たしかに、アルファベットだけの国の人から見れば日本語の表記は相当に複雑に見えるのだろう。「学校で何年もかけて習うから」と答えたが、うまく伝わっただろうか。

ビュッフェ形式なのでかなりたくさん食べることができ、満足して部屋に戻った。暑い中を歩いて疲れていたことと、翌日はさらに1日中歩く必要があることから、この日は早めに就寝。