アルメニア旅行記(シューシ)

ステパナケルト近郊にあるシューシは、アルメニア人が多数派だったナゴルノ・カラバフにおいて例外的にアゼルバイジャン人がほとんどだった町で、1990年代初めのナゴルノ・カラバフ紛争ではアゼルバイジャン勢力の拠点になった場所。

ただ、最終的にはアルメニア勢力に敗れ、陥落後の民族浄化によってアゼルバイジャン人たちは去っていった。かつての住居が廃墟になって残っていて、20年以上前の戦争の跡を見ることができる町になっている。今回のナゴルノ・カラバフ滞在で、どうしても見たい場所だった。

(2021年 追記)
2020年に発生したナゴルノ・カラバフ紛争で、この町はアゼルバイジャンによって制圧されました。その後の停戦協定により、シューシはアゼルバイジャンに返還されることになっています。
シューシ陥落のときにアゼルバイジャン大統領が「すべての建物を元通りに復元する」と声明を出していますので、このときに見たモスクやハーンの宮殿などは修復されることになるはずです。このページに載せているたくさんの廃墟は、アルメニアが実効支配していた当時の風景として見て下さい。
この旅行当時、シューシで出会ったアルメニア人たちが今後も住み続けられるのか不明ですが、いつかまたこの町を訪れてみたいものです。


外務省を出て、歩いてバスターミナルへ。シューシ行きのバスを探そうとしていると、ノープロレム親父と再会した。バスでやってくる 獲物 旅行者を待ち構えているようだったが、こちらがシューシへ行くことはすでに伝えていたので、バスを教えてくれた。

そのバスに乗り込んで出発を待っていると、ノープロレム親父が「ジャパニ!」と言いながら走ってきた。ちょっと来てほしいということなのでバスを下りてついていくと、予想通り日本人旅行者(一人旅の若い男性)が捕まっていた。ただ、この人はすでにインターネットでステパナケルトのホテルを予約しているそうで、安宿に泊まる必要はない。バウチャーを見せると、ノープロレム親父は「じゃあ、明日のアグダム方面への車のチャーターを一緒に誘ってくれ」と言ってきた。

チャーターの客が2人になればそれだけ料金を多く取れるという目論見なのだろうが、話してみるとこの人は翌日の午前中にステパナケルトを出発してエレバンへ戻るという。せっかく未承認国潜入という珍しい体験をしながら1日で出国するのはもったいないという気もするが、まあ人それぞれ。

この人はこれから外務省へ行ってビザを取得するということなので、外務省の場所を伝えてから別れた。その後でシューシへ行くということだったので、もしかしたらシューシで再会するかもしれないと考えていたが、結局会うことはなかった。もしかしたらバスではなくノープロブレム親父の送迎でシューシへ来て、そんなに長居せずにステパナケルトへ戻ったのかもしれない。

私のほうはバスに戻って2時50分に出発。30分ほどでシューシの町外れにある終点のバス停に到着した。運賃は200ドラム。ステパナケルトではまだ雨は降っていなかったが、シューシに着いたときは小雨になっていた。

とりあえず町の中心にあるガザンチェツォフ教会へ行こうと思い、近くにいた軍人さん(警察官と思って近づいたら軍人だった)に「教会はどちらの方向ですか?」と聞いたところ、「日本の方ですか?」と片言の日本語が返ってきた。別に日本語が話せるわけではなく、いくつかの言葉を知っているだけという人だったが、まさかこんなところで日本語を聞くとは思わなかった。

教会の方向を教えてもらった後、「今日は寒いですね」という日本語に「はい、少し寒いですね」と挨拶してから軍人さんと別れた。ちょっとナゴルノ・カラバフの好感度アップ。

歩いていくと、教会はすぐに見えてきた。

アゼルバイジャン人はイスラム教徒が多数派なので、この教会は戦争後にアルメニア人によって建てられたもの。なので、見ての通り建物はかなり新しい。

少しずつ雨が強くなってきていて、日本から持参した折りたたみ傘が役に立った。教会の内部を見て、しばらく周辺を散策。

坂道を下りていくと、道の両側に廃墟になった建物が並んでいた。ただ、絵だけはきれいだし、絵の中に書かれているのがアルメニア文字なので、これは後から描いたものだと思う。

さらに歩いていくと、廃墟が次々と現れる。右側の廃墟はミナレットがあるのでモスクの跡だと思う。かつての信仰の場がこんなになっているわけで、ムスリムの人に見せるのがためらわれる風景。

町の中心部に、ひときわ目立つ建物があった。壁に「AVAN SHUSHI PLAZA HOTEL」と書かれていて、おそらくはシューシで一番設備のいいホテルだと思う。かなり新しいので、オープンして間もないはず。

帰国後に調べたら公式サイトがあったので紹介しておく。これからシューシへ行ってみようと思っている人は、話のネタにここに泊まってみるのもいいかもしれない。

前述の通り、2020年に発生したナゴルノ・カラバフ紛争でシューシの町はアゼルバイジャンに返還されている。この AVAN SHUSHI PLAZA HOTEL については、2023年の時点では上記サイトにアクセスできるが、ホテルが現在どうなっているかは不明。 アゼルバイジャン領になったシューシ(アゼルバイジャン名はシュシャ)を旅行した人がいたら、このホテルの現状を教えてほしい。

ナゴルノ・カラバフ時代のホテルの様子については、YouTube に以下の動画があったので載せておく。

町の中心部だけは再開発が進んでいるようだが、その他はまだ廃墟の山。

下の写真の建物は、もしかしたらハマムの跡かもしれない。

おそらくアルメニアの偉人。最初はアゼルバイジャン時代の銅像かと思ったが、銘板に刻まれているのがアルメニア文字であり、それにアゼルバイジャン人だったら紛争後もこんなにきれいに保存されているはずがない。アルメニア文字なので人名は読めないが、1902年生まれで1950年に死去した人物らしい。

人が住んでいるアパートの向こうに、2本のミナレットが見える。

地図によれば、ここは「上ギョヴヘル・アガ(Govhar Agha)」モスク。ネット上にはミナレットに登れるという情報もあったが、閉鎖されていてモスク自体に入ることができないようになっていた。モスク内部は完全に焼け落ちているらしい。

名前に「上」と付いていることから、当然「下ギョヴヘル・アガ」モスクもある。こちらは、この後で遠くから眺めることができた。

モスクを通りすぎて少し歩いたところに、アパートの廃墟が並んでいた。

近づいてみると、こちらは入れそう。付近に誰もないし、入ってみることにした。

建物の中は、こんな感じ。当然、ここにはかつてアゼルバイジャンの人たちが住んでいたのだろう。戦争から20年以上が経っているので現在は何も残っていないが、ピンクと水色のタイルが貼られたスペースがあったり(おそらく男女別のシャワー室だと思う)、所々にかつての生活の跡を感じることができた。

おそらく女性用のシャワールーム。崩れた壁と瓦礫が痛々しい。

バルコニーに出て外を眺めると、こんな感じ。現在アルメニア人が住んでいるアパートや、「下ギョヴヘル・アガ」モスクの2本のミナレットが見える。アパート前に広場には装甲車の残骸が残されているという情報があって、それも見たいと考えていたのだが、広場は完全に草に埋もれていた。この下に今でも装甲車があるのか、または撤去されたのかはわからなかった。

廃墟マニアには興味深いアパート跡だと思うが、シューシを追われたアゼルバイジャン人たちは国内難民として劣悪な環境で生活しているという話だし、正直言ってあまり気分のいい場所ではない。次第に悲しい気持ちになってきたので、これでアパート跡を出ることにした。

続いて「下ギョヴヘル・アガ」モスクへ行こうとしたが、こちらは途中で道がふさがっていた。このため、こちらのモスクはミナレットを遠くから眺めただけだった。

町の中心部に戻ってくると、最近建てられたような建物が増えてきた。アルメニア人の入植者たちの建物だと思う。

遊園地の廃墟もあった。戦争後に廃墟になったとすればもっと朽ち果てているはずなので、おそらく最近になって閉鎖されたのだろう。

さらに歩いていくと、かなり立派な建物の廃墟があった。これはハーンの宮殿跡で、戦争によって焼失してしまったもの。入れそうなので、中に入ってみることにした。

先ほどのアパートと同様、内部は完全な廃墟になっているが、古そうな時計だけが残っていた。

しかし、こういう重要な建物まで廃墟になってしまったのは残念。今はかつての姿を想像するしかない。

宮殿跡の横に城壁がある。シューシは高台にある町で、この城壁は高台の縁にあるので普段ならここから絶景が見られるはず。

しかし、この日は雨なので何も見えない。残念だが、これはこれで貴重な眺めかもしれない。

町の中心部に戻ると、カフェがあったので入ってみた。

入ってみてびっくり。がらんとしてテーブルもなく、どこがカフェなのかと思ったら壁で囲まれた2区画(下の写真の矢印の場所)だけにテーブルと椅子が置かれていた。空間の使い方が実に贅沢。

雨の中を歩き回ったので、ここでコーヒーを飲んで休憩。しかし代金を払おうとすると誰もいない。しばらく探し回ってやっと500ドラムを払えたが、このまま金を払わずに消えたらどうするつもりだったんだろう。

2020年のナゴルノ・カラバフ紛争で、シューシ陥落の写真としてインターネットのニュースで配信されていたのがこちら。

はっきりとは憶えていないが、私が休憩したカフェがたしかこのあたりの場所だったように思う。コーヒーを持ってきてくれた年配の女性は無事だったんだろうか。

そろそろステパナケルトへ戻ることにして、バス乗り場のほうへ歩いていくとツーリストインフォメーションセンターがあった。散策を終えたところだったので中には入っていないが、最初にここへ来て地図をもらっておけばよかった。

バス乗り場に戻る途中、最初に訪れたガザンチェツォフ教会が遠くに見えた。

雨が降っているというのに洗濯物を出したままのアパートを眺めながらバス乗り場へ。こういう生活臭のあるアパートを眺めるのも好き。

すでにステパナケルト行きのバスが停まっていたので、乗り込んで出発を待つことにした。

しかし、ここは興味深い町だった。戦争による廃墟をこれだけ見られる場所も、そうはないと思う。アゼルバイジャン難民のことを考えると暗い気持にもなるが、ナゴルノ・カラバフへ来た際には、ぜひとも訪れてほしい町といえる。

午後5時半、シューシを出発。


夕方6時、ステパナケルトに到着。雨はかなり本降りになっていた。とりあえず近くにケバブ屋が何軒か並んでいたので、そこで夕食にしようとしたが、言葉がまったく通じない。このため、ここでは食材を指差してケバブを何本か食べるだけにしておいた。値段は800ドラム。

この後、バス停から続く大通りを歩いてみたが、雨はますますひどくなってくる。靴が濡れてしまったので、スーパーに入って新聞紙を探してみたが、置いてなかった。これは、濡れた靴を乾かすためには新聞紙を詰めておくのが一番いいと聞いていたため。

仕方がないので代わりにトイレットペーパーを買い、近くにあったファーストフード店みたいなケバブ屋で夕食にした。かなりボリュームのあるケバブとアイラン(飲むヨーグルト)で値段は1,650ドラム。

相変わらず雨がひどいので、これで散策を終えて安宿に戻ることにした。雨の中を歩きたくないのでタクシーを利用したが、ここで乗ったタクシーはメーター付きだった。安宿までの料金は600ドラム。アルメニアではメータータクシーをまったく見なかったので、なんだか意外だった。

靴の中にトイレットペーパーを詰め、寝る前にシャワーを浴びていると急に電気が消えてシャワーが水になった。周囲の建物は明かりがついているので、この安宿だけブレーカーが落ちてしまったらしい。しかしブレーカーの位置もわからないし、オーナーのノープロブレム親父とも連絡の手段がないので、どうしようもない。こういう事態に備えて日本から持参していたLEDライトが非常に役に立った。

明日は天気がよくなることを願いながら、この日はこれで就寝。